半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-246)

246.中書郞李重以為等級繁多,在職不得久,又外選輕而內官重,以使風俗大弊。宜釐改重外選,簡階級,使官人。議曰:「古之聖王,建官垂制,所以體國經治,而功在簡易。自帝王而下,世有增損。舜命九官,周分六職,秦采古制。漢仍秦舊,倚丞相,任九卿,雖置五曹、尚書令、僕射之職,始於掌封奏,以宣外內,事任尚輕,而郡守牧民之官重。故漢宣稱所與為治,唯良二千石。其有殊政者,或賜爵進秩,諒為治大體,所以遠蹤三代也。及至東京,尚書雖漸優顯,然令僕出為郡守,便入為三公,虞延、第五倫、桓虞、鮑昱是也。近自魏朝,名守杜畿、滿寵、田豫、胡質等,居郡十餘二十年,或秩中二千石假節,猶不去郡。此亦古人『苟善其事,雖沒世,不徙官』之義也。」(卷二十九 晉書上・百官志)

【白話】
中書郎李重,認為朝廷官吏的等級繁多,且在一個職位上時間不長,又輕視地方官的選派而重視任用近侍臣僚,因而導致風氣敗壞。應改為重視地方官員的選派,簡化官員的品級劃分,使官得其人。他說:「上古聖王,設官建制,目的是為了治理好國家,其成功之處在於簡單易行。從五帝三王以來,其設官建制世代各有增減。虞舜只任命九牧官長,周代分設六種職事,秦朝采用古制。漢沿用秦的制度,倚仗丞相,任用九卿,雖也增設了五曹、尚書令、僕射等官職,這些擔任內廷職務的官員開始也只是掌管封緘奏章的事,將君主旨意向朝野內外轉達而已,其職責任務尚不算重要,而郡守一類管理民眾之官則處於重要地位。所以漢宣帝說,治理天下所要倚靠的是俸祿為二千石的好郡守。他們之中政績優異的,就賜給爵位或晉升官職、增加俸祿,這確實是治國的大根本,所以宣帝的政績能夠遠追夏、商、周三代的盛世。到了東漢尚書之位儘管逐漸優越顯要,然而尚書令和僕射外派地方就是郡守,隨即回到京城便位列三公。虞延、第五倫、桓虞、鮑昱就是如此。近世魏朝著名的郡守杜畿、滿寵、田豫、胡質等人,做郡守十多年到二十年,有的品秩達中二千石,皇上賜予節杖,也不讓他們離開州郡,這也體現出古人『如果善於從事某項工作,即使擔任一輩子,也不離開這份官職』的大義。」

【日本語訳】
中書郎の李重は官吏の階級があまりにも細分化されていると思っていました。加えて、一つの職位につき在職期間は長くなく、地方の官員を軽視して皇帝の側近しか重視されないきらいがあるので、気風は悪くなる一方でした。地方の官員こそを重視し、官員の階級も簡素なものにすることこそ、適材適所は実現できるものだと李重は思いました。李重は言いました。「はるか昔の聖王が官位に関する制度を設けたのは、国をよく治めるためであり、簡単に執行できるから成功しました。五帝三王の時代から、官位については増えたり減ったりしてきました。虞舜は九牧官長だけを任命し、周王朝になるとそれを六つの官職に分けました。秦王朝は昔の制度を採用し、漢王朝秦王朝のそれを引き継ぎ、丞相を頼りにしながら、九卿を任用しました。五曹、尚書令、僕射などの官職を新たに設けたが、いずれも主君の意図を朝廷の内外に伝えるだけの仕事であり、さほど重要とは言えなかったが、郡守など民を管理する官職は重要でした。そのために、漢の宣帝は言いました。天下を治めたければ、二千石の俸禄をもらうよき郡守が頼りになります。彼らの中に優秀な功績のある者には、爵位を与え、官職の昇進や俸禄の増加をしてあげるべきです。これは実に国を治めるための大いなる根本であり、だからこそ、宣帝の業績ははるか夏、商、周三代の栄世にも肩を並べたものでした。東漢になると、たとえ尚書の地位がますます高くなるも、尚書令と僕射は地方に発遣されると郡守になり、京に戻れば三公の地位になれるものでした。虞延、第五倫、桓虞、鮑昱らがそうでした。近世の魏で著名な郡守であった杜畿、滿寵、田豫、胡質らも郡守として十余年から二十年ほど勤めており、二千石ほどの俸禄を貰う者もいました。皇上は節杖を与えはしても、彼らを州郡から出しはしなかったが、これも古人の大義を体現したものです。『ある仕事をするのに長けていれば、たとえ一生その仕事しかしなくても、その官職から離れることはありません』。」

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