半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-249)

249.「逮至秦氏,罷侯置守,子弟不分尺土,孤立無輔,二世而亡。漢承周秦之後,雜而用之,前後二代,各二百餘年。揆其封建,雖制度舛錯,不盡事中,然跡其衰亡,恆在同姓失職,諸侯微時,不在強盛也。昔呂氏作亂,幸賴齊代之援,以寧社稷;七國叛逆,梁王捍之,卒弭其難。自是之後,威權削奪,諸侯止食祖俸,甚者至乘牛車。是以王莽得擅本朝,遂其姦謀,傾蕩天下,毒流生靈。」(卷三十 晉書下・傳)

【白話】
(承上則,劉頌:)「到了秦朝,廢棄了諸侯立國管理地方的做法,而在地方設立郡和縣作為行政機構,皇室子弟沒有分封到尺寸土地,王朝因此孤立而沒有諸侯作為輔佐,傳位二世就亡國了。周和秦兩代之後是漢朝,漢朝將封建制和郡縣制混雜在一起使用,西漢東漢兩代,國運各二百餘年。臣考量漢代的封建制度,發現儘管這個制度也存在錯亂的地方,不能做到處處恰當,但是考查一下漢朝的衰亡,問題都出在同姓諸侯不能保衛國家,是諸侯勢卑力微的時候,而不是諸侯強大興盛的時候。以前外戚呂氏作亂,幸虧依靠齊國、代國諸侯王的援助,才使得漢朝劉氏江山安定下來。後來七國叛亂,梁王(劉武)捍衛朝廷,終於平定了這一場災難。從那以後,諸侯王的權力和威勢被削奪,只能靠徵收郡國租稅以為生計,有的甚至窮困到只能乘坐牛車的地步。因此王莽才得以獨攬朝政,實現了他篡逆的奸謀,導致天下分崩離析,生靈塗炭。」

【日本語訳】
(前項を引き継いで、劉頌は言いました。)「秦王朝になると、諸侯に地方の管理を任せるやり方は廃止され、代わりに地方に郡と県を設けて行政機関としました。皇室の子孫たちは少しも領土をもらえなかったので、王朝は諸侯の補佐を失くして孤立してしまい、わずか二代で滅亡しました。周と秦の後は漢王朝です。漢王朝封建制と郡県制を混同して一緒に使いました。西漢東漢これら二つの王朝はそれぞれに二百年あまりの国運がありました。漢王朝封建制について調べたが、確かにこの制度にも過ちはあり、完璧とは言えません。しかしながら、漢王朝の敗因を考察すると、問題は同じ氏族の諸侯が弱くて国を守れないことにあり、諸侯が強すぎて中央に歯向かったからではないことが分かりました。その昔、外戚の呂氏は謀反したが、幸い斉国と代国の諸侯の援助を得て、漢王朝であった劉一族の治世は安定できました。その後、七国が反乱した時も、梁王(劉武)が朝廷を守ったので、何とかこの禍の逃れたのです。しかしながら、それからの諸侯は力と威勢を朝廷から削がれて取り上げられたので、わずかな国税だけが彼らの生計を支えていました。ある者は牛車しか乗れなくなるほど貧しくなりました。だからこそ、王莽は朝廷を牛耳られるようになり、謀反の計略を実現し、天下を崩壊させて人々を奈落の底に落とせたのです。」

>> 群書治要三六〇 #為政 #法古