半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-327)

327.任愷,字元褒,樂安人也,為侍中。愷性忠直,以社稷為己任。帝器而昵之,政事多諮焉。愷惡賈充之為人,不欲令久執政,每裁抑之。充病之,後承間稱愷忠公局正,宜在東宮,使保護太子。外假稱揚,內斥遠之。帝以為太子少傅,而侍中如故,充計畫不行。會吏部尚書缺,好事者為充謀曰:「愷今總門下樞要,得與上親接,宜啟令典選,便得漸疏。此一都令史事耳!且九流難精,間隙易乘。」充即啟,稱愷才能宜在官人之職。世祖不疑充挾邪,而以選官勢望,唯賢是任,即日用愷。愷既在尚書,侍覲轉希,充與荀勗、馮紞承間譖潤免官,愷受黜在家。充毀間得行,世祖情遂漸薄。然眾論明愷為人,群共舉愷為河南尹,甚得朝野稱譽。而賈充朋黨,日夜求愷小過,又諷有司,奏愷免官。後起為太常,不得志,遂以憂卒。(卷三十 晉書下・傳)

【白話】
任愷,字元褒,西晉樂安人,官居侍中,任愷性格忠誠正直,把治理國家看作是自己的責任,皇帝司馬炎對他非常器重且親近,政事經常向他諮詢意見。任愷厭惡賈充的為人,不願讓賈充長居高位,曾多次壓制賈充,致使賈充不滿於任愷;後來賈充找到一個機會,就向皇帝司馬炎稱讚任愷忠誠公正,一心為國,推薦他到東宮輔助太子,表面上好像是稱讚任愷,實際上是想排斥他,意圖削去他的權力。結果皇帝任命任愷為太子少傅,而侍中之職仍像以前一樣,賈充計謀沒有得逞。當時恰好有吏部尚書的職缺,有個喜歡多事的人向賈充獻謀說:「現在任愷總攬著門下省機要的職務,能夠跟皇帝接觸親近,應當啟奏皇帝,任命任愷主持選舉人才,這樣就可以讓皇帝逐漸疏遠任愷,這只不過是都令史的職事罷了,而九流很廣難以精通,這樣容易尋找到攻擊對方的地方。」於是賈充便向皇帝上奏,稱讚任愷的才能,應該擔任吏部尚書的職務。時世祖沒有懷疑賈充心懷邪惡之意,而認為選官權重望高,應任命賢德的人,就任命任愷為吏部尚書。任愷在吏部尚書任內,侍奉謁見皇帝的機會漸漸少了,賈充和荀勖、馮紞等人,趁機捏造罪名誣陷任愷,於是任愷被免除官職在家。賈充毀損離間的計謀得逞,致使世祖對任愷的情誼漸漸淡薄。但是群臣都了解任愷的為人,共同推舉他為河南尹,任愷在任期間,深得朝廷內外的稱讚。而賈充的朋黨,時時刻刻在尋求任愷的小過失,又暗示職官上奏皇帝免去任愷的官職。後來朝廷重新任命任愷為太常的官職,任愷感到很不得志,憂鬱而死。

【日本語訳】
西晉の任愷、字は元褒、樂安の人で侍中の仕事をしていました。任愷の性格は忠誠に厚い正直者で、国の政事は自分の責任だと思っているので、皇帝である司馬炎から重用されて非常に親しい関係にありました。皇帝は政事についてよく彼の意見を聞きました。任愷は賈充の人となりを好まず、賈充が高い地位にならないように何度も圧力をかけたので、賈充は任愷に対して強い不満を抱いていました。それから、賈充は機会を見つけて皇帝である司馬炎に任愷を勧めました。彼のように忠誠に厚くて公正な者は、國のことを常に考えているので、東宮で太子を補佐させてはいかがでしょうと推薦したのです。表向きは任愷を褒めているように見えるが、実は彼を排斥して、その権力を弱めようとしたのです。結局、皇帝は任愷を太子少傅に任命するが、侍中の仕事も今まで通りに担当するの兼務となったので、彼を朝廷の中心から遠ざけようとした賈充の企みは失敗しました。ちょうどその時、吏部尚書の仕事が後任を探していました。ある者は賈充にこのように言いました。「任愷は重要な職務があるので、皇帝と親しく接することができるが、皇帝が任愷を人材の推挙を担当するように仕向ければ、皇帝は徐々に任愷から疎遠になりましょう。どうせ都令史程度の仕事だし、ほかの者とは通じにくい職務だが、その隙に彼を落とすための材料を探すのはいくらでもできましょう。」賈充は皇帝に進言し、任愷の才能を褒めたたえて吏部尚書の職務を任せるべきだと力説しました。世祖は賈充が良からぬことを考えていたとは知らず、徳行のある賢人を任用すべきだと思って、任愷に吏部尚書の仕事を任せました。任愷は吏部尚書として働いていた時、皇帝に謁見して御そばにいられる機会が徐々に少なくなったので、賈充や荀勖、馮紞らはそのすきに罪をねつ造して任愷を陥れ、任愷は罷免されました。賈充の離間の作がうまくいったので、世祖と任愷の仲は冷めていきました。しかしながら、群臣は任愷の人となりをよく分かっているので、共に彼を河南尹に推薦したのです。任愷は推薦されて再び出仕してからの任期内も素晴らしい仕事ぶりで、朝廷の内外から褒めたたえられました。しかしながら、賈充の徒党がいつも任愷の細かい過ちを見つけようと目を光らせつつ、皇帝が任愷を免職するように仕向けていました。それから、朝廷は任愷を太常という政事にさほどかかわりのない官職にしたので、任愷は志を思うように発展させられないことを憂鬱に思いながら亡くなりました。

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