半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-355)

355.惠賈庶人,名南風,平陽人也。拜太子妃,性妒虐,嘗手殺數人,或以戟擲孕妾,子乃墮地。惠帝即位,為皇后,虐誅三楊,逆弒太后,矯害二公。荒淫放恣,與太醫程據等亂。彰于內外,詐有身為產,養妹夫韓壽兒,遂謀廢太子,以所養代立。專為姦誣,害太子,眾惡彰著。永康元年,為趙王倫所廢,賜死。(卷二十九 晉書上・后妃傳)

【白話】
惠賈庶人,名南風,平陽人。被封為太子妃,性情善妒暴虐,曾經親手殺死數人,有的用戟丟擲懷孕的妾,孩子於是墜落地上。惠帝即位,封為皇后,暴虐誅殺楊峻、楊珧、楊濟,逆弒楊芷太后,矯害司馬亮和司馬瑋二公。生活淫亂靡爛,放縱胡為,和太醫程據等人發生不正當的行為。元康九年(西元二九九年),又內外宣揚,假稱她曾經懷孕生子,並養妹夫韓壽的兒子韓慰祖充當親生兒子,於是謀劃廢掉太子,讓自己所養的代為太子。她專門做些奸邪欺騙的事,謀害太子司馬遹,眾多的惡事昭著顯明。永康元年(西元三OO年),趙王司馬倫派齊王司馬冏收押賈南風到金墉城,廢掉皇后之名為庶人。不久,又以金屑酒毒殺她。

【日本語訳】
恵賈庶人、名前は南風であり、平陽の人でした。太子妃に昇進したが、嫉妬しやすくて暴虐な性格でした。自らの手で何人も殺しており、戟を妊娠してる妾に投げつけたこともあり、赤子はそのまま床に落ちてしまいました。恵帝が即位すると、皇后に昇進したが、暴虐にも楊峻、楊珧。楊濟らを殺し、さらには天道に悖って母上である楊芷太后にも手を掛けた上、司馬亮と司馬瑋ら二人をも殺しました。生活はみだらにして豪奢を尽くし、わがままばかりをして、御典医の程據らともみだらな行為をしたとされます。元康九年(西暦二九九年)、朝廷の内外に妊娠して息子を生んだことがあると嘘つき、妹の息子である韓慰祖を自分が生んだ息子にしようと、太子の廃止を企みました。いつも嘘をつき悪巧みをして、ついには太子である司馬遹をも殺害し、多くの悪事が明るみになりました。永康元年(西暦三OO年)、趙王である司馬倫は齊王である司馬冏に賈南風を金墉城まで収監するように命じ、皇后の身分を剝奪して庶民としました。間もなく、司馬倫は彼女に金屑酒を授けて毒殺しました。

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