半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(2-94)

94.夫道以人之難為易也。是故曾子曰:「父母愛之,喜而不忘;父母惡之,懼而無咎①。」然則愛與惡,其於成孝無擇②也。史鰌③曰:「君親而近之,至敬以遜④;貌⑤而疏之,敬無怨。」然則親與疏,其於成忠無擇也。孔子曰:「自娛於檃(yǐn)括⑥之中,直己而不直人,以善廢而不邑邑⑦,蘧(qú)伯玉⑧之行也。」然則興與廢,其於成善無擇也。屈侯附⑨曰:「賢者易知也,觀其富之所分,達之所進,窮之所不取。」然則窮與達,其於成賢無擇也。是故愛惡親疏,廢興窮達,皆可以成義。(卷三十六 尸子)

【注釈】
①咎:責怪,責備。②無擇:不用挑選,沒有區別。③史鰌:字子魚,春秋衛國大夫。一生為國薦賢斥奸,死後猶陳屍以諫,以其至誠感動衛靈公。④遜:謙虛,恭順。⑤貌:通「藐」。輕視。⑥檃括:泛指矯正。本為矯正竹木邪曲的工具。檃,揉曲。括,正方。⑦邑邑:憂鬱不樂貌。⑧蘧伯玉:春秋時衛國人,是一位求進甚切並善於改過的賢大夫。⑨屈侯附:戰國人,其生平不詳。

【白話】
若循著道義來做事,就能使那些別人覺得困難的事情變得容易。曾子說:「父母疼愛自己,心裡高興而不忘父母恩德;父母討厭自己,則戒慎恐懼不惹父母生氣。」既然如此,那麼不論父母喜歡還是討厭自己,對於自己成就孝心來說,沒有什麼區別。史鰌說:「君王親近自己,就禮敬而恭順;君王疏遠自己,就恭敬而無怨。」既然如此,那麼不論君王親近還是疏遠自己,對於自己成就忠誠來說,沒有什麼區別。孔夫子說:「在自我矯正中感到快樂,嚴格要求自己而不苛求別人,有才德而被廢置不用,卻能不鬱鬱寡歡,這就是賢人蘧伯玉的德行。」既然如此,那麼不論被舉用還是被棄置,對於自己養德行善來說,沒有什麼區別。屈侯附說:「是否賢德很容易辨別,只要觀察他富裕時如何分配財富,發達時舉薦什麼樣的人,窮困時如何拒絕外面的誘惑。」既然如此,那麼不論窮困與發達,對於自己成就賢德來說,沒有什麼區別。所以,無論別人對我們喜愛還是厭惡、親近或是疏遠,還是自己人生衰敗、興旺,或是窮困、發達,都可以成就自己的大義

【日本語訳】
道義に従って事を行えば、他人が難しいと思うことを易しくさせることが出来ます。曽子は言いました。「親に可愛がられたら、嬉しくて親の恩徳を忘れないべきで、親に嫌がらせたら、親に怒らせないように戒心したり、恐懼したりすべきです。」したがって、親に可愛がられるか、嫌がらせるか、関係なくて、自分が親孝行するのに差はありません。史鰌は言いました。「君王に親しく近づかれたら、礼儀正しく敬うべきで、君王に疎遠されたら、いつも通りに恭しく敬って、怨みません。」したがって、君王に親しく近づかれるか、疎遠されるか、関係なく、自分が忠誠を尽くすのに差はありません。孔子は言いました。「自ら矯正しているうちに楽しいと感じて、自ら厳格に要求して他人を厳しく要求しません、才徳のある人が廃置されても、鬱々と意気を消沈してはなりません。これは賢人の蘧伯玉の徳行です。」したがって、推薦して任用されるか、廃置されるか、自分が徳行を修養したり、善行を行ったりするのに差はありません。屈侯附は言いました。「賢徳であるか、どうか、識別しやすいです。彼らは富裕である時に如何に財産と豊を振り分けるか、発達である時にどんな人を推薦するか、窮困の時、如何に外からの誘いをこだわれるか、というこれらを観察するのです。」したがって、窮困であろうか、発達であろうとも、自分が賢徳を達成するのに差はありません。したがって、他人は私たちが好きか、嫌いか、私たちに親しいか、疎遠か、それとも自分の人生の衰微や繁昌、あるいは窮困や発達など、自分の大義を達成させることが出来ます。

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