半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-82)

82.裴頠,字逸民,河東人也。遷尚書左僕射侍中。元康七年,以陳準子匡、韓蔚子嵩並侍東宮。頠諫曰:「東宮之建,以儲皇極。其所與遊接,必簡英俊,宜用成德賢邵之才。匡、嵩幼弱,未識人理立身之節。東宮實體夙成之表,而今童子侍從之聲,未是光闡遐風之弘理也。」(卷三十 晉書下・傳)

【白話】
裴頠,字逸民,河東郡人。官職升遷到尚書左僕射侍中。晉惠帝元康七年(西元二九七年),陳準的兒子陳匡、韓蔚的兒子韓嵩在東宮陪侍太子。裴頠上書勸諫說:「東宮的設置,是為王朝培養儲君的。與太子交往接觸的人,一定要挑選才智出眾的人士,應該任用盛德賢明的人。而陳匡和韓嵩年紀小,還不懂得做人的道理和處世的節操。東宮皇太子應該具有聰慧早熟的儀表和氣度,而今卻有未成年的孩子陪讀的聲音,這不合乎光大道德教化的根本道理啊!」

【日本語訳】
裴頠、字は逸民、河東郡の者でありました。尚書左僕射侍中にまで上り詰めました。臣下たちの息子が東宮で太子に仕えていると、裴頠は諫めました。「東宮とは未来の君主を育てるための場所なので、高い徳性と賢明な者を任用すべきです。臣下たちの息子はまだ未成年で幼く、人としての道理も処世の節操も分かっておりません。これでは道徳教化の根本に合いません!」

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