半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-83)

83.頠深患時俗放蕩,不尊儒術。魏末以來,轉更增甚。何晏、阮籍素有高名於世,口談浮虛,不遵禮法,尸祿耽寵,仕,不事事。至王衍之徒,聲譽太盛,位高勢重,不以物務自嬰,遂相放效,風教陵遲。頠著〈崇有〉之論,以釋其蔽。世雖知其言之益治,而莫能革也。朝廷之士,皆以遺事為高。四海尚寧,而有識者知其將亂矣。而夷狄遂淪中州者,其禮久亡故也。倫、秀之興舋,頠、張華俱見害,朝綱傾弛,遠近悼之。(卷三十 晉書下・傳)

【白話】
裴頠深深擔憂社會風氣的放蕩不拘、不遵從儒家的學說思想。從曹魏末年以來,這種風氣更是與日俱增。(當年)何晏、阮籍一向在社會上享有盛名,他們談論虛無玄理,行為不守禮教法令,空享俸祿卻不能盡職盡責,心中貪戀榮寵,為官卻無所事事。至王衍之流,他們的聲譽太盛,官位很高,勢力很大,不把公務放在心上。結果天下的人都競相仿效,風俗教化頹廢敗壞。裴頠撰寫了《崇有論》,以闡釋這種風氣的弊端,但是世人雖然知道裴頠的言論有利於國家治理,但卻沒人能夠真正革除這種頹廢的風氣。朝廷官員都把能夠不理會本職事務,作為清高的表現。當時天下還算平靜,但有識之士卻預料將要出現動亂。後來夷狄(五胡)攻陷中原,就是因為禮儀道德久已喪失的緣故。到了趙王司馬倫和孫秀起而作亂的時候,裴頠和張華同時被害,朝廷綱紀傾倒廢弛,遠近人士無不悼念他們。

【日本語訳】
裴頠は社会の乱れ、人々が儒教の教えに従わないことを心配していました。社会的に有名でありながら、虚無なことばかりを言って礼法を守らずに仕事をしない人たち。さらには高い官位にいて大きな権力を有していながら、公務を心にかけない者たち。天下の人々は彼らを真似るので、世の中は廃退していきました。裴頠は『崇有論』という書を著して、このような弊害を説明しました。人々は裴頠の言葉こそ国に有利だと知りながらも、だれも革新できませんでした。官員たちは本職の仕事をしないことを清廉にして高潔の行いだと思い込んでいました。その後、反乱が起こった時、裴頠も張華も同時に殺されてしまい、朝廷は大いに乱れたので、人々は二人を大変懐かしみました。

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