半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-210)

210.何充字次道,廬江人也。為護軍中書令。顯宗初崩,充建議曰:「父子相傳,先王舊典,忽妄改易,懼非長計。」庾冰等不從,故康帝遂立。帝臨軒,冰、充侍坐。帝曰:「朕嗣洪業,二君之力也。」對曰:「陛下龍飛,臣冰之力也。若如臣議,不睹升平之世。」康帝崩,充奉遺旨,便立孝宗。加錄尚書事、侍中。臨朝正色,以社稷為己任。凡所選用,皆以功臣為先,不以私恩樹用親戚。談者以此重之。(卷三十 晉書下・傳)

【白話】
何充,字次道,廬江郡人,曾經擔任護軍、中書令之職。成帝司馬衍剛剛駕崩,(庾冰建議,因國家北方有強敵,應該立皇室中年長者為君。)何充建議說:「父傳位於子,這是先王舊典的定規,突然隨便加以改變,恐怕不是長久之計。」庾冰等人不聽從何充的建議,於是成帝司馬衍的弟弟司馬岳即位成為晉康帝。一天,康帝坐在前殿,庾冰和何充陪侍在皇帝左右。康帝說:「朕得以繼承皇位,都是你們二位的功勞啊!」何充回答說:「陛下能登上皇帝的寶座,是庾冰的功勞。如果按照臣的意見,那就看不到現在的升平景象了。」康帝駕崩,何充奉(康帝)遺旨,擁立(年幼的太子)司馬聃為穆帝。何充升任總領尚書事並加侍中一職。他在朝處理政事,神色莊重,以國家社稷為己任,凡所選用的官吏,都優先任用有功的臣子,從不徇私任用親戚。評論的人因此對他很是敬重。

【日本語訳】
何充、字は次道、廬江郡の人で、護軍や中書令を務めました。成帝の司馬衍が崩御してまもなく、(北に強敵がいるため、皇室の中の年長者を君主とすべきだと庾冰は言ったが、)何充は反論しました。「父親が王位をその子に伝えるのは、先王や昔ながらの経典が定めた規則です。みだりに変更しては、国の未来によくないのではありませんか。」しかしながら、庾冰らは何充の言葉に耳を貸さず、このように、成帝である司馬衍の弟であった司馬岳は即位して晉の康帝となりました。ある日、康帝が殿堂で座っており、庾冰と何充はそのそばにおりました。康帝は言いました。「朕が皇位を受け継げたのは、そなた二人の功績でありました!」何充は言いました。「陛下が皇帝の王位に上り詰められたのは庾冰の功績です。もしわたしの意見通りにしていたら、今のように平和な世の中は見られないでしょう。」康帝が崩御した後、何充は(康帝が遺した)詔書をもって、(まだ幼かった太子である)司馬聃を穆帝としました。何充は總領尚書事に加えて侍中という官職につきました。何充は朝廷で仕事する時はいつも厳かな顔色で国家と民のことを何より考え、官吏を任用する時も功績のある臣下を常に優先し、決して親族縁者などのコネに惑わされることがありませんでした。評論家からも大変尊敬されました。

>> 群書治要三六〇 #為政 #至公