半懂

印光法师文钞

群書治要三六〇(4-225)

225.扶風王駿,字子臧,宣帝第七子也。年五六歲能書畫誦詠詩賦,秉德清貞,宗室之中,最為俊茂。封汝陰王,遷鎮西大將軍,都督雍、梁[梁作凉]諸軍事,大興佃農。入朝,徙封扶風王。薨,西土氓黎,思慕悲哭,涕泣岐路,更樹碑讚述德範。長老見碑者,無不拜之。其遺愛如此。(卷二十九 晉書上・傳)

【白話】
扶風王司馬駿,字子臧,是宣帝司馬懿的第七個兒子。他五、六歲時就會書法繪畫、背誦吟詠詩賦,秉有潔淨堅貞的品德,在皇族宗室中,他的才智和聲望最高。武帝即位後封他為汝陰王,又晉升為鎮西大將軍,統管雍州和梁州的軍事。在位期間,他大力倡導鼓勵農民租地耕種。回朝後,被封為扶風王。他死後,西部黎民百姓追思他的德政,都悲痛不已,在送葬的路上悲泣哀啼,還立碑讚頌他的道德風範。地方長老凡是見到碑,無不磕頭跪拜。他留下的恩德竟達到這樣的程度。

【日本語訳】
扶風王である司馬駿の字は子臧、宣帝である司馬懿の七人目の息子でした。彼は五、六歳頃にはもう書や絵画をたしなみ、詩賦を諳んじていました。清廉な品徳を併せ持っており、皇室宗族の中では才智と名声ともに最も高かったのです。武帝が即位した後は汝陰王と叙せられ、また鎮西大將軍に昇任し、雍州と梁州の軍事を仕切りました。在位していた間、彼は農民に土地を貸して耕作することを大いに提唱しました。朝廷に帰った後、彼は扶風王に叙せられました。死後、西部の庶民など民は彼の徳政を懐かしみ、みな悲痛な思いでいました。見送りの道で嘆き号泣する者は絶えず、彼の道徳と品行を褒めたたえるための碑も立てられました。地方の長老たちはこの碑を見ると、跪いて拝まない者はいませんでした。彼はこれほどの恩徳を残したのです。

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